薄明薄暮帳

うさぎの生態について書きます

雑文

人間と出会うということは、別れの数を増やすということだと思う。20余年も生きてなお、「一生友達だよ」なんて言葉を本気で信じられるはずもなくて、「あなただけを愛するよ」という言葉に無闇に寄りかかることも出来なくて。何度も苦い別れを経験した。こっぴどく嫌われて拒絶されたことも、耐えきれなくて酷い言葉をかけて逃げたことも、誤解を解くことが出来なくて近づけなくなってしまったことも、1回や2回じゃない。その度に新鮮に苦しんで痛みを負って、懲りずに人に近づき続ける私のことを、本気で馬鹿だと思っているのは、決して私だけではないだろうな。人を諦めるというのは、少なくとも私にとっては、生きることを諦めることと同じだ。親しい人の内面に触れて、新しい人と関わって、そうやって内臓を震わせないと、錆び付いてしまいそうで怖かった。それは、ただ別れることよりもずっと怖いことだった。今日もまた新しい人と出会った。今までよりほんの少しだけ歩幅が近づいた。今までよりほんの少しだけ理解した。いずれ来る別れから目を逸らしながら、また、小さく言葉を紡ぐ。次も一緒に行こうね。

焼き魚

どうして私は言語化するのもはばかられるような醜くてどうしようもない感情を、覚えてしまうんだろうな。苦しいし、しんどいし、こんなの本当に嫌だけど、それだけ人が好きになれるのはいいことなのかもなとも思う。ああ、でも、執着の薄い人は羨ましいけど、どうだ!私はこれくらい人に執着できるんだぞ!とどこか胸を張っているような気もする。なんだかあまりにも浅ましい。受け取り方にえらいもえらくないもないのに、どこかで優位性を求めてしまう自分があまりにも醜い。こんな燻った思いを抱えているのは理想の自分にはほど遠い。こっちを見てと切望してしまう幼稚な自分に耐えきれなくて、感情の先にある人間を強く恨んでしまって、立ち上った火を指でかき消すことは出来なくて、ただじわじわと焼け焦げていく姿を眺めているけれど、いくら願っても焼き魚は刺身には戻らない。

夏休み初日

あーあ、今日もまたやらかしてしまった。好きなゲームの展覧会のチケットを取った。取ったつもりだった。取れていないことに気が付かず、バカみたいに楽しみにして眠りについて、起きて、気づいて、落ち込んだ。どうして私はいつもこうなんだろうなんて考えるけど、そんなことしても詮無くて。思えばずっとこんな感じだったような気がする。高校受験の1週間前に体調を崩してなあなあな気持ちのまま受験会場に向かって時計とメガネを忘れて全てが嫌になって突っ伏して寝ていた時も、到着時間を勘違いして好きな俳優の舞台挨拶付きの映画に間に合わなかった時も、3年時編入の準備を進めながらも書類の取寄せ期間を把握していなくて全てがおじゃんになった時も、アイドルのライブに行ったはずが現場に辿り着けなくて歌舞伎町で1時間さまよって気がついた時にはライブが終わっていた時も、いつもこんな感じだった気がする。自分に失望して、その失望もそのうち忘れて、思い出す時にはまた何かをやらかしている。あまりにも忘れっぽいし間が悪い。自分との約束が守れない。そのうちに生きていることさえも忘れてしまうんじゃないか。いや、そもそも今この時だって生きていることを自覚してるとは言い難いし、普段息をしていることだって、溺れでもしなきゃ気づけない。現実逃避。よく考えたら、最近出かけていたから家事が滞っているし、多少体調が悪いから外に出るべきではない気もするし、ちょうど良かったのかもしれないな。そうやって辻褄を合わせて誤魔化して、どうにか今日をやり過ごす。部屋にはUberEATSの抜け殻が転がっている。白い食器はその白さを忘れてシンクに沈んでる。干した洗濯物はもう間もなく干からびそうだ。したいな、丁寧な行動。丁寧な生活。丁寧な人生。少し部屋を暗くして薄い布団に潜って、ぬいぐるみを撫でる。ごめんね、私。

遺薫

人に少しずつ私を覚えさせることを、私は呪いと呼んでいる。誰かにとっての私は、いつも笑顔で挨拶をする学生さんで、通りがけに小説を買いに来る女性で、絶え間なく喋る後輩で、腕の中で大人しく収まっている女の子で。今日も私は、コンテンポラリーで少女的な蘭の香りを纏って、人を呪って生きている。私が少しでも長く貴方の中で生きていくために。

八十言の葉

言葉というのは常に不完全だ。どんなに語彙を尽くしても、表現を工夫しても、全く相違なく私の感情が貴方に伝わることは絶対無い。渦巻く感情をどうにかして体外に出そうと喘ぎながら文字を綴り、言葉を紡いだ結果、不完全な私がここに生まれる。私を始めとした不器用な人は、心という、見えないけれど確かに存在しているものに苛まれて、どうにかして守ったり、追い出したり、視覚化したりしようとする。自分ですら気が付かないように、あえて名前を与えずに深く暗いところに沈めたりすることもある。そんなこんなで出来上がって可視化された不完全な心は、私の不安を少しだけ抑える。「伝える」ということを脈々と続けて、そういうことが出来る人が生き残って、今のところその伝播の1番末にいるのが私なのだから、私が何かを伝えなければ生きていけない生き物になってしまうのも、当たり前のことなのかもしれない。振動に乗せて貴方の鼓膜を揺らす。規則的に歪んだ黒い線は私の感情を伝えたふりをする。伝わった気になる。すると安心する。私は、そういう儀式が必要な人間なんだと思う。

どうでも良い乾咳にまつわる備忘録

 

一週間ほど前に、インフルエンザA型と診断された。それはどうでも良いのだが、未だに乾咳が止まないので、乾咳について気づいたことを書いていく。

・痰は絡んでいないのに、痰が絡んだような感覚と臭いが止まないので、食事やその他嗜好に差し障りがある

・咳をするときちょっと気持ちが良い

1つ目については言うまでもないが、非常に不快である。これが無ければ良いのに。嗜好品というのは鼻が効いていないと楽しめないものばかりであるというのは、ひとつ発見かもしれない。

2つ目の、「ちょっと気持ちが良い」というのは、私だけの感覚かもしれないが、乾咳特有の症状であると感じた。湿った咳は、する度に甚だしく遺憾であるし、咽頭痛を併発しているとその不快さは他の追随を許さない。一度噎せると自分の意思では少しもコントロールできないし、刺激的で陰鬱だ。然し、乾咳は違う。乾咳は、する度にどこかすっきりとした感じがある。軽度な現状であれば「今のうちに咳をしておこう」というコントロールも行えるし、その度に肺や気管を体で感じられるので面白い。年始にコロナウイルス(推定)にかかった時は、湿ったような痰のからんだ咳が続いて、また咽頭痛も併発していたため、非常に苦々しく面白くない思いをした記憶がある。

あと、1人で部屋で咳をする時は、乾咳の方が「らしい」ような気がする。

どうやら巷ではインフルエンザも流行っているみたいですね。皆様体調にはお気をつけて、手洗いうがいを忘れずに。

あえかな東京

渋谷のスクランブルスクエアに登った。1月の東京はまあまあ寒くて、46階はまあまあ高くて、なかなかどうして非日常的で怖かった。そもそも高所恐怖症なので足の震えが止まらなかったというのもあるが、それはさておき。吹き荒ぶ冷風と戯れながら下界(というと尊大だが)を見下ろして、「多分今目の前で人間が鉄骨に押しつぶされても特になんの感慨も湧かないだろうなあ」と思った。厨二病的発想だと思う人は是非渋谷のスクランブルスクエアに登ってみてほしい。外国人観光客とカップルに挟まれながら肩身狭く登った結果、本気でそう思うはずだから。なんだろう、物理的に遠いと割と何でもどうでも良くなっちゃうんだろうね。その感覚が妙に新鮮に怖かった。同じ目線にあるクレーン車は「わあこんなに高いところにあって、足場はどうやって組んだんだろう」なんて親身になって考えられるけど、夜のスクランブル交差点をうごうごと歩く人間達は、どうにも無機質で、シムシティのシステム以外の何物でもなかった。飛行機の墜落事故とかはあんなに恐ろしいのに、豆粒の人間を直で見ると感傷も無くなるんだなあ。眼前に広がる東京は私が思うよりもずっと広くて、電気の絨毯は人間の愚かさを、豆粒は人間の醜さを、そのまま象徴していて、気持ち悪かった。登ってよかった、スクランブルスクエア。大きくなってしまうと足元はどうしても見えなくなるものなんだな。私がウルトラマンだったら、絶対に地球人は助けられない。