薄明薄暮帳

うさぎの生態について書きます

ラジオ

一人暮らしをきっかけにラジオを買ってもらった。多機能なようで使い勝手の悪い、癖のあるラジオだ。局を変えるのも面倒だから、基本的にFM8.00から動くことは無い。ラジオというのはいいものだ。聴覚情報で全てが完結するし、なにより聞いていても聞いていなくても良い。なんとなく音楽が流れたり、パーソナリティが喋ったりしているのを、頭の片隅に放置して無視しても誰も怒らない。YouTubeを垂れ流すとなんだかちょっとした罪悪感があるけれど、私はそれは、履歴と距離に由来するんじゃないかなと思っている。YouTubeの動画を見ることは、ひとつの箱を開けて中身を見て、また次の箱を開けるという行為を繰り返すことに似ている。もちろん箱の中身を見る義務なんてないし、1人で適当に垂れ流しても怒る人はいない。しかし、親切な視聴履歴は「あなたはこの動画を見ました」と開けた箱の数を教えてくれる。箱の中身を手に入れることが出来なかった悔しさや、せっかく受け取った箱を乱雑に扱ってしまった申し訳なさのような後味の悪さが、少しだけ残る。ラジオは過去を振り返らない。私がなんの番組を視聴したかなんて教えてくれないし、どこを通り過ぎたのか、何を得られなかったのかも寡黙に見逃してくれる。きっと、そんなことに興味がないんだろうな。誰かが作品を手渡してくれているような感覚は、良くも悪くも、YouTubeの消費者と生産者の距離の近さを表している。頑張る彼らの顔が目に浮かぶと、応援してあげたい気持ちになる。でも、人を認識するというのはすごく疲れることだ。ラジオは遠い。よく知らない遠くの人たちが作り上げたものがそこにある。聴き逃しても罪悪感はないし、なにより彼らに私は見えていないように感じる(ここでいう彼らとは、コメンテーターや放送作家やリスナーのこと)。そして彼らはあんまり一生懸命じゃない。私に必死で何かを語りかけて来ない。チャンネル登録と高評価を望まない。私に何かを求めない。居てほしいときにだけ隣に居てくれる都合の良い存在だ。向上心とたゆまぬ努力が求められる世界で、ラジオの向こう側だけは少しだけゆっくりとした時間が流れている。聞いていなくても誰も怒らない。私も無関心な私を許せる。椎名林檎と年越しを祝うことも出来る。ラジオというのはいいものだ。

トモダチコレクション

横浜の夜景の写真でよくコスモクロックの隣に写っているかまぼこ型のホテルは、横浜グランドインターコンチネンタルというらしい。横浜に住んでもう20年になるが、何度聞いても覚えられない。赤レンガ倉庫でスパイスの効いた少し高いお昼ご飯を食べて、ワールドポーターズで取り留めもなく流行りものを物色して、さあ帰ろうと19:25を指すコスモクロックを横目に国際橋を歩いた時に右手に見えるホテルが、それだ。私はそれを見ながらいつも思う。トモダチコレクションみたいだな、と。電気の付いている部屋ではきっと住人が桃色のハートや緑色の呼びかけや黒いモヤと共に悩み事を抱えていて、そのうちこちらに話しかけてきて、相談事を持ち込んだりするのだ。下の階層は仲の良い友人や家族が住んでいて、高いところには芸能人やお笑い芸人が住んでいるのだろう。自分の好きな住人は好物を与えて可愛がって、好きじゃない住人の部屋は雨の降る壁紙にしてかびたパンを与えたりして、そのうち好きじゃない住人と気に入っている住人が結婚して嫌な気持ちになったりするのだろうな。彼らをコレクションしているのは誰なんだろう。誰が彼らのために蚊を叩いてあげるのだろう。誰が彼らの夢の中に入ってバンジージャンプを嫌がる彼らの背中を押すのだろうか。お昼のインターコンチネンタルを通り過ぎてもそのことは分からなくて、夜になって部屋の電気に気が付いてからようやく、ああトモコレみたいだなと思う。それにしても、そもそもあの光の数だけ人間がいるというのが信じられない。本当にいるのだろうか。ただ電気がついたり消えたりするだけの空っぽの建物なんじゃないか?みなとみらいの美しい夜景の煌々と光る部屋の明かりの数だけ、本当に過去と人生を持った生きた人間がいるのだろうか。やっぱりトモダチコレクションなんだよ、と言われた方が納得が行く。きっと今日も誰かの悩みを誰かが解決しているのだ。お腹が空いたとか、背中が痒いとか、あいつと仲良くなりたいとか、そういう悩みを。

ビニール袋とクラゲ

両親が海好きだったため、幼少期はひっきりなしに海に連れていかれた。いつものように海に行き、いつものように浜辺を歩く。割れた貝殻や湿った流木の近くに、ビニール袋のようなものが落ちている。棒でつついたり、ぷにぷにと触ったり、姉と投げあって遊んだこともあったかもしれない。なんだかぐにょんと潰れていて、生きているのかも死んでいるのかも分からなくて、気持ち悪いけど、触れないほどではない。それが、私がクラゲに抱く感情だった。クラゲが愛されていることを知ったのは、いつだったろうか。水族館で、クラゲは人気者だ。事実、幽霊のように薄透明な膜を優雅に動かし、水に愛されていますというような顔している彼らは、美しく見える。だが、私が知っている彼らは、床に落ちているビニール袋だ。間違いなく水中の女神なんかではなかった。断言するが、水族館のクラゲと、海のクラゲは、全くの別物である。世界がただ同じようにクラゲと呼んでいるだけで、あれらは全く違うものだ。あのライトアップされた水槽を優婉に揺蕩うクラゲはなんなんのだ。あのぬめぬめしていてつつくと水が出て、ピクリとも動かないクラゲは、いったいなんだというのだ。

水族館

水族館はなんだかいい。水の中の生活は、私にとっては限りなく異世界に近い。私が彼らと同じ世界を体験しようと裸で飛び込んでも、10分も経たないうちに水を気道末梢まで吸引して窒息するのに、彼らはそこで生きている。幸福そうに、退屈そうに泳いでいる。無論、彼らがこちらの世界に踏み込もうとしても同様だ。無様に暴れて、そのうち黙る。悲しいかな、私たちはいつまでも相容れない。遺伝子がそれを許さない。私の墓場に彼らがいて、私は彼らの墓場にいる。60cmのアクリル樹脂越しに、私たちはお互いを認識する。コンサルタントが作ったクラゲ水槽も、魚を見る気がないカップルも、放流されて暴れ龍の如く駆け回る子供も、全部含めてなんだかいい。軽く生熟れた光と冷たさに包まれた空間は、世界から切り離されたような、しかし広い世界を小さくしたような感じがして面白い。

キャッサバ

友人ととあるアルゼンチン料理屋に行った。前菜にキャッサバの揚げ物を頼んだ。芋が結構好きなので、少しだけテンションが上がった。辛めのハニーマスタードと絡めて食べた。ねっちりとした食感と意外性のある味付けはなかなか相性が良くて、美味しかった。メインディッシュの肉料理が届いた。ひとつのプレートに何種類かの肉と少しの野菜が乗っているものだった。話しながら、添え物として置いてある、キャッサバの焼き物のようなものを口に運ぶ。なるほど、揚げてないからかさっきとは随分食感が違うな。味もさっぱりとしている。こんな感じなのか。調理法によって色々な味になるものなのだな。奥が深いな、キャッサバ。友人が言った。「あれ、これ芋じゃなくて大根か」。その発言を聞いた瞬間私は、確かに今口にしたものは大根だったなと思った。

冷蔵庫

隣で低く唸る冷蔵庫の中には、多分もう食べられないものもいくらか入っているし、そろそろ食べられなくなるものも入っている。想像するだけで自分の不誠実さを突きつけられているようで嫌な気持ちになる。私が冷蔵庫の中身を完全にコントロールするか、あるいは冷蔵庫の中がどんな状態でも許容できるかのどちらかでないといけない。どちらでもないから耐えられない。仕方がないから耐えているだけで、別に耐えられるわけではない。ワンルームの部屋にある少し大きめの冷蔵庫は、扉を1枚挟んでじわりと私のことを責めてくるようで怖い。ぱんぱんに詰まった冷蔵庫は怖い。

アイドル

大阪の小さなライブハウスで1人のアイドルに出会った時に、「彼女はアイドルだ」と思った。何を言っているのか分からないかもしれないが、私は確かにそう思った。足を小刻みに動かし、音に合わせて左右に揺れ、マイクを持ちながら口角を上げたり目を細めたりする彼女は、偶像として生きようとしていた。確かに、アイドルだった。私は彼女を心底恐ろしく感じていた。そもそも、3次元の人間を崇拝対象として絶対視することは、私にとって恐ろしいことだ。歪な押しつけはいずれ確実に破綻を招き、人が傷つく。人は誰かの盲目の対象になるべきでは無い。誰かを盲目に見つめるべきではない。たかだか10代の女の子は、そのあまりにも重い枷を背負い、背筋を伸ばして立ち向かっていた。気味が悪く、恐ろしく、感情への冒涜ですらあると思ったが、とても美しかった。